猫撮影の7つのコツを公開したよ

YouTubeで短めの動画で、写真のことカメラのことを紹介してきました。

9月20日から26日が動物愛護週間ということもあって、10分ほどの長めの動画ですが、7つにまとめました。

シルバーウィークも自粛という方も多いと思います。10月は祭日が今年はありません。

是非、涼しくなるこの機会に猫たちの写真をたくさん撮りましょう。人間の家族とも一緒に撮りましょう!

ポイントを考えて発信する

ポイントを考えて発信する

現在、7月下旬までの公開予約分まで、動画の制作が終了しています。

ここまでは、写真もイラストもBGMとナレーションを除く音声も全部自分で制作した素材から構成して組み立ててきました。

今の作り方は、テーマを決め、ナレーション原稿を書き、ナレーションを録音して、素材を構成していく流れです。

当然、説明動画では、無い素材、欲しい素材も発生する。

ここで、無いからナレーションで済ますというわけにはいかない。

どうしても発信者側が陥りそうな発想を打ち砕き、見ている人にわかるように伝える方法を考えなければならない。

そこで肝に銘じておかなければならないポイントを考えてみた。

1)対面で話しているとやりとりがあって伝わるような話も、ナレーションでは一方通行。省略せずに、主語述語、〇〇と●●の対比は正確に記述すること。テロップを入れることを考慮して、表現が統一されるようにする

2)視聴者の「なぜ?」に答えられるような内容づくりをする。最初に出てくるような言葉は、説明を付けてから使う、なるべく具体的に表現する

3)比較表現は、きっちり同じ条件を守る

4)ナレーションと映像の内容が異なるような状態にはしない。タイミングを合わせる

5)ナレーションと映像の内容を理解して展開していくことを優先して、盛り込みすぎない

など大切だと思いました。

それを考慮せずに作った動画は、何か違和感を感じつつも、何が問題なのかがわからない。1日寝かして、ポイントを考え直して、できる範囲で修正を加えていく。

8月からは、動画撮影にも挑戦していきたいので、その内容を盛り込みつつ、映像を楽しんでいただける内容で発信していきたいと思っています。

説明動画も企画から、必要な画像、映像を作っていくと、自分の写真・映像の質向上にもつながると考えて、進めていきたいと考えています。

写真を撮る、被写体との向き合い方を問う

写真に関する本で、紹介したい本が2冊あります。

ナイトカメラマンの竹本宗一郎氏の「星景写真からはじめる星空タイムラプスへのステップアップ」と花を中心に撮影している並木隆氏の「フォトコン別冊 一番人気のある写真教室テキストブック」です。

双方の本に共通することは、ノウハウの本ではなくて、写真を撮ることに取り組み方を語っていることです。

竹本宗一郎氏の「星景写真からはじめる星空タイムラプスへのステップアップ」

竹本宗一郎氏は、情熱大陸でも取り上げられたないとカメラマンです。写真だけでなく動画もNHKでも放送されているし、プラネタリュウムの企画や広告制作なども手がけている実はすごい人。

星景写真を撮るのに、100%の準備をしても実際は計算し尽くして100%、それより下がることはあっても超えることはないことはない。というのはよく知られている。

普段写真はある程度の明るい場所で撮ることが多いが、星景写真は真っ暗なところで撮る。撮る場所を陽があるうちに確認したり、どの方向に何が出現するのか、街灯など昼間にロケハンしていても、想定しないことがいろいろあります。そして機材の操作、設定などいろいろな意味で、準備することは多い。

しかし、「根底には自分がどのような写真を撮りたいのか」があって、そのためにどのようなレンズとカメラ、三脚などの機材が必要なのかが自ずと決まってくる。

これは高いカメラが良いというのではなく、焦点距離や希望の設定ができる機材ということだ。

そこからスタートして、ステップアップしていく方法が書かれている。

撮影条件、明るさ、撮りたいものは、全て違う。どれも正解。だからこそ、こういう設定で撮るが大切なのではなくて、何をどう撮りたいのかを達成できるためのヒントをたくさん盛り込んでくれている。とてもわかりやすい流れになっている本です。

はじめにには「この本は、手っ取り早く撮影方法だけを知りたい!と言うせっかちな方には、お勧めしません。答えそのものではなく、そこにたどり着く必然や思考にリーチした本だからです。」書かれています。

並木隆氏の「フォトコン別冊 一番人気のある写真教室テキストブック」

並木隆氏は、2021のオンラインCP+ではソニーブースでいろいろとプレゼンテーションをされています。昨年の夏に発売された本です。草花を撮る方は多いと思います。写真教室も撮影会もたくさんあります。先生によってはその人が撮りたいと思った写真を否定してしまったり、先生の視点を押し付けてしまう場合はあります。いわゆる常識が間違った常識であったりする。この本では、撮りたい被写体をよく観察して自分が撮りたい写真はどこからどの角度でどのぐらいの焦点距離で撮れば撮れるのかを、自分で探っていって身につけて欲しいという、まさに写真を撮ることの真髄を語っている本なのです。

どの被写体であっても、被写体を観察して撮る角度を探り、設定を探り、撮るということは、変わらないのだ。その真髄を語っている本を是非手に取って読んで欲しいと思います。

今回の動画制作に際して、ここでもういいかっと思ってしまったり、無理だよと思いつつも考え、再トライする原動力になった2冊です。

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竹本宗一郎氏の「星景写真からはじめる星空タイムラプスへのステップアップ」

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並木隆氏の「フォトコン別冊 一番人気のある写真教室テキストブック」

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個と個ーYou are OK, I am OK.

日本人はモンスーン型らしい。
他に狩猟型とか色々あるみたいです。
台風が来る前に色々準備をして備えるが、備えを超えた台風が到来し被害を受けると、しかたないとまた回復させていく。この話には、相反する両行を受容することができる稀なる国民だという話がありました。それは、日本語に表れおり、諺にも現れている。

何を言いたいのかというと、そういう多様性を持ち合わせていた日本がなぜにジェンダー後進国となってしまったのか。その理由はわからないが、個人的に感じたことを書いてみる。

社会が作る差別

ほとんどの人が経済的には自立しているとは思う。精神的にはどうだろう。私も他の人のことは言えないけれども、○○の誰それですと言って看板でお仕事をしていた感じはある。お父さんが、お兄さんが、どこそこの社長で、代議士でとか自慢される方もいる。お金持ちなだけだね。でも貴方はなあに。ってな話です。これは、社長だから役員だからいいということではない。自分が何を考え、何をしたいのか、何ができるのか、どう社会と関わるのか、を考えてほしいのだ。

大人の社会の偏見は、子供たちのイジメにもつながる。人が生を受け、生きていく中でだからこそ、社会的地位ではなく、その人個人を尊重してほしいと思う。

最近のメディアで気になったのが、「パート」「アルバイト」とわざわざテロップを書いている。発言はそうかもしれないけど、両方とも「パートタイム労働者」です。ググってみると習慣的に「パート」を主婦・主夫と呼び、学生やフリータを「アルバイト」と呼ぶとのこと。主婦・主夫も給料が発生していないだけで、大切な仕事である。そこに、働いている側の24時間好きなことができるみたいな感じを受け取るのは、私だけだろうか?パートとアルバイトを併記することは、メディアが暗に意味のない区別するというフィルターをかけているのだ。

同様のことは注意深く社会を見ていると、非難している側の人間にも、気づかずに差別を肯定しているところがあるのだ。

個を見よ!

○○人だから、こういう国民性だと、避難する人がSNSでよく見られる。それって、犬だから、猫だからこういう性格だよねって言っているのと同じこと。個々に性格も感じ方も違う。兄弟でも違うし同じ種類でも違うことは、大方の人が知っているのに、こと人間になると忘れてしまう。
宗教の関係でできること、できないことはあっても、国、性別、生まれた環境関係なしに、個と個で付き合うことはできないのかなって感じてます。
私が住む集合住宅には、年齢も国も性別も様々。だから、○○人がねとか言う言い方は好きではない、はっきり言って嫌い。エレベータで合えば、挨拶程度はする。海外で自分が外国人に見られる経験をしているから、自分はそれは事実だからなんとも思わないけど、それが聞き手によっては否定的に感じるのかよくわかる。それを公の会議の場で言うのはもうアウトだ。

差別発言は、発言者の自信のなさの現れ

人は、攻撃されたり脅威を感じると防衛行動を取る。私は偉い、強い、優秀だといった優位性を担保したくなるのだ。
男女関係なく、女はとか男はとか言う差別発言はそろそろやめられないのか。自分を正当化、優位に保つのがその会議の趣旨では無いのだから、私的感想の発言は個人的な場だけにして、中身を進める物事をより良くするために、討議をすればいい。周知徹底の場なら、書類を渡せば済む話。実に形式的で非効率。

森さんの発言問題は、そのこと自体の問題ではなく、日本社会の問題でもある。容認してきた人達、男女問わず容認してきた社会の問題だと思う。

なかなか、会社にいてはっきり上司に意見を発言できることは少ない。それは、仕事の内容ではマネージメントできても、メンタル面のマネージメント力を併せ持つ人材の育成ができていないのだ。誰しもが気持ちに余裕の無い社会になりつつある。誰も相手が嫌がるような苦言は自分もエネルギーがいるし、排除されることの恐怖。負のスパイラルだ。

自立した人間になろう、自分に自信を持てるようになろう

盛んに余人を持って代え難いと言うのは、それだけすごいというように聞こえるが、逆だと思う。人はいずれ死ぬ。属人化は物事をストップさせてしまうのだ。余人をもって代え難いのであれば、引き継いでいく人を育成し、属人化させないことが、責任あるものの役目だと思う。

人の言われるままに行動するのではなく、自分で情報を集め、考え行動する。それがたとえ自分の意に反する行動をすることになったとしても、前進につながると思う。

私も決して自分に自信を持っているかといえば、そうではない。だからいざと言うときに、防衛的になりドキドキしてしまう。だからこそ学ぶこと、経験を積む場を増やし、メンタル的には自立した自信を持った人間になりたいと思う。

今日は選択の積み重ねである

1年を超えるコロナ禍。東京神奈川埼玉千葉は、二度目の緊急事態宣言になった。人々はますます、不安と不満とで余裕がなくなり今まで通りにできないことを、今までできたことを感謝するのではなく、他者への攻撃に向けがちになってしまっている。

我々の今は常に存在する選択から生まれる

わかりやすいことから言えば、体は日々の食事からよくわかっている。食事コントロールをできずに、つい甘いものを食べてしまっては体重を増加させてしまい、後悔をする。これは分かりやすいですよね。正しい知識のもと、食事の量、食べるタイミングなどを食べたいという欲求と、食べれば良くないという両極間で選択をする。

気がついていない人が多いと思うが、選択は朝起きる時から始まるのだ。目が覚めそのまま起きるか、二度寝するかから・・・。その人にとって重大と思っている人生の節目の選択も。重い軽いなしに膨大な選択のもと今の自分がいる。

情報を読み解く、疑う力

高校時代だったか短大の社会学の授業だったか、こんな課題が出された。入手できる新聞、メディアを元に、自分で事件あるいは記事を選び、メディアでどのように扱われているかを比較しレポートを書くというものだった。どの記事を選択して各紙の記事の分析をすることは、そのメディアごとにフィルターを意志を通してアウトプットされるものであるから、事実はどこにあるのか、真実とは何かを考える視点が必要だと思う。まだ、新聞、TVメディアは社内に校閲や法務がありSNSのように匿名で誰でも発信できる真偽不明の内容も世の中には、散漫しているのだ。同じ映像や図を見て、そのまま信じるのか。その選択を否定するわけではないが、その選択はそのまま自分に帰ってくる。自分がどのように考え今後の行動選択していくか、よりより社会作り、過ごしやすい安心した社会づくりへ行動していけるのか、そういう情報を読み解く力をつけてほしい。
そうすることが、社会情勢の動きを予測想定につながると個人的には思う。

人と人の関係は国籍ではない

中学3年生の夏休みに、アメリカ中西部の田舎にホームステイした。自分が外国人になった経験をした。その間同じ団体の交換留学生以外は日本人に会うことはなかった。ほとんど英語は喋れない、そういう中でどうする。言葉が通じなくても、考えや意志を伝えることはできるのだ。お互いが伝え合いたいと思いいろんな方法を試すことで、伝わっていく。
この経験は人間同士でなくても、人間と動物でも同じ。人同士も人と動物達も個と個の関係なのだ。
私の住むURにはいろんな国籍の人が住んでいる。エレベータでもコロナ前から挨拶やちょっとした声をかけるようにしていた。今でこそ、3ヶ国語で張り紙が出るようになったが、改装工事の説明で資料は日本語のみだったから、少なくとも英語の資料も用意するように私は提案した。逆の立場だったら、そう望むから。
年末、私が公園で転んでしまった時、助け起こしてくれたのはエレベータで何度か挨拶した外国人だったのだ。ああ、やっぱり人の関係は人と人だなと痛感した。

自分にとってメリットのあるものの選択の行方

SNSなどで中国や韓国の資本が入り、100%日本の資本でない企業を非難している投稿がよくある。製造業を中心に人件費を安くするために工場を海外に移すことになり、技術の流出、人材が育成ができなくなったのは、価格という競争力をつけるために海外工場が多くなった。安い方が自分にはメリットがと言い購入するという選択をしてきた自分たちの結果なのだ。

また、本当に働き手が足らないのだろうか?第一次産業を仕事にしている人たちは、かなり過酷な労働環境で働いている。どうでないと食物を生産できなかったりするからだ。また介護や看護師など専門性を必要としながら、家庭を持ち子供を育てていくには決して十分な対価をもらえてない人たちもいる。
農業や建設現場、介護の世界に海外の就労者を実習生や様々な制度で外国人を入れてるのは、日本人の就労従事者がいないからに他ならない。担い手がいなければ、日本の食料自給率はますます減って、海外で何かあれば日本は飢えるのだ。

自分たちが日々選択、決断し生きる背後に何があるかを考えてみてほしい。故郷納税も自分の住むところの住民の医療福祉財源が減ることを、認識してほしい。

金持ちは偉いのか?国民に上も下もない

今日のNHKの党首に聞くという番組を聞いていて、政治家には相手に伝える資質が必要だと思った。
菅総理は「若い人は、重症化しないが軽症のため他の人に移してしまう・・・」と言っていたが、「若い人は、呼吸器が必要になるほどの重症になることは少ないが、働けない、学校に行けないなどの後遺症に悩む人も多い」が本当だろう。それから重症のベット数を増やすために「コロナ病床を増やしてもらえる病院には、〜万円を・・・」とお金を出してやるから病床数を増やせって、上から目線に感じたのは私だけだろうか。国民に行動変容を求めているのであれば、議員自らが模範とならないのは何故だ?彼らは特別なのか?政府が「国から払われますという国は、国民の税金と借金なのだ」政府、議員さん達の給料から払われるなら、もっと出費が増えないように、先手先手の対策をするだろう。
病院はもう本当に、手一杯だ。通常の怪我・疾病の対応の病院の医師・看護婦も必要なのだから、もう病床はいっぱいだと言うべきだろう。それでも医療関係者が、最前線で戦う医師・看護師を助けるために、自分の病院でどうしたらできるかという共助をしているのだ。

感染者数が減っている時に、冬は患者数が増えると言われ続けていたのをほったらかしに、大阪は都構想、自民は総裁選とGotoに走り、人材の確保や専門病院の設立を怠ると選択の結果なのだ。もう医療崩壊だ、トリアージが始まっていると言えないのか。リスクの際の情報公開は嘘をつかないことでしか、信頼回復はできない。これはBtoCも政府と国民も同じだ。台湾がコロナをうまくコントロールできているのは、国民に正確な情報を支え対策を提示すること、政府が国民と同じ目的で動くことが素早い対応と施策につながったのだ。1年経ったのに政府として分析、反省、学ぶことは無いのか?と思ってします。

2021年をどう過ごす

自粛している時にできることをやってみる。新しく挑戦するためのノウハウの知識を得たり、今まで学んできたことを整理して、まとめたりしてみようと思う。
まだ、構想の時点だけど、進めていくことが充実した日を過ごせると思っている。
ほぼ医療崩壊に近いのだから、事故や急な疾患で命をなくす可能性はいつでもある。その時に後悔しないような、朝起きてから寝るまでの選択をして行動したいものだ。

緊急事態宣言発令

アメリカのニュースで、米・LA救急隊員に「助かる見込みのない患者は搬送しない」というのが流れていた。日本でも区長からトリアージせざる得ないというアナウンスも出ている。コロナの重症者の増加で、疾病や大怪我、冬に多い心筋梗塞、脳出血などなど重症者の受け入ればできなくなりつつある。

私たちは、コロナの感染予防をするだけでなく、室内でできる体力低下防止をしながら、大怪我をしないよう、疾患のある人はかかりつけに重症にならないようにちゃんと通って生活を維持していくことだろうと思う。

今日ニュースを見ながら思うことは、菅総理が新規感染者数が減らない場合は延長されるのかという、MCの質問に「仮定の話はできない」と答えるのは信じられない。国の危機、コロナという見えない災害の動向を予測予防して、対策を考え施策していくのが政治家であり、起こってしまったことに対処両方として施策するのは、関係者は誰でもできるのだ。国会議員、地方議員も企業にテレワークを70%推進させるなら、国民の税金で高い給料をもらっている方々も実施してもらいたい。各企業は会食禁止、1人会食推進しているのだから、議員さん達が見本を示してほしいものだ。国民は、どんなに総理や大臣達が会見をしても、信頼置けないと、行動には移してくれない。今回の緊急事態宣言間に新規感染者が減らなければ、それは国民の協力がされていないからでなく、政府、議員達が実行しないのに国民に要求するのかという政治不信に他ならない。

今後、日本に必要なのは、以前に戻ることなどは無いと考え、どう日本を立て直していくかを、さまざまなリスクを予測し対策実施していくリーダーシップだと思う。第1波のあと、冬の増加は医療関係者から出ていた話であり、それに向けての準備をしていたのか?Gotoで国民にさも終息したかのような雰囲気を作った。推進するなら、予防に気を緩めないようなPRも必要だったお思う。コロナ禍の冬は初めてなのだから。

2020年は:アフターコロナを想う

アフターコロナ、未来のことを書く前に2020年の自分を振り返ってみる。

年始に立てた目標

2019年秋口から左足の親指の関節が、原因不明の感染症で腫れてしまい処方の抗菌剤を飲み、完治に3ヶ月近くかかった。ずっと家にいたので、本を読もうとか色々考えたが実行できずに、行政書士の資格を取ろうかなって思い通信教育を申し込んだ。
それと、来年はオリンピックだし英語を勉強し直そうかなってヒアリングマラソンを始めました。
両方とも11月後半に初め、12月はなかなかいい調子で進んでいた。

1−3月病院のお世話になり、緊急事態宣言に

コロナではないが、2019年に続き別の疾患で通院・入院・手術となった。検査に時間が取られて、判明してオペ、退院は2週間ぐらいですが、心は穏やかではなかったです。

半年近く撮影もできずに、目標のお勉強をテキストとDVDで進めるうちは知らないことを知る面白さもあり、それなりに進むが、過去問題になると徐々に遅れてくる。

徐々にあれって

定職についての勉強で無いことが今回は裏目に出てしまった。生活のリズムきっちりとできてないと、コロナ禍で人との接触は無い、徐々に試験日が近くなっていく、なんでこの資格取ろうと思ったんだろうなどなど、徐々にメンタルがおかしいなと思い始めた。オンライン、オフラインであれ人とコミュニケーションすることが人間にとっていかに大切かを痛感した。感じる心が壊れてしまった。
カウンセリングの勉強したことがあるので、自分でこれはまずいと感じ、思い切って資格の取得はやめることにした。そうして、写真教室や撮影を始めたら気持ちも復帰できたようです。

2021年はどうする

2021年で還暦。今まで自分で経験してきたことを整理し直して、活かしていくことにしようと考えている。勉強したもの、仕事を通して経験したことを見直してアウトプットしてみようかと思っています。

コロナ禍とアフターコロナを考える

アフターコロナを考える前に、今年のコロナ禍で想うことは、政府や行政には経験したことのなり感染症と言わずに、新型コロナ、他国が経験した感染症にどう対策していったかを学び、定期的に発生する感染症にへの対策をしてほしかったと想う。災害や問題が起これば、国債で賄うのでなく、議員さん、官庁が無駄に使っている費用を、未来の災害予防や医療体制、教育に回してほしいと思いました。
Gotoキャンペーン自体がもうコロナが終わってしまったかのような印象を、国が発してしまったこと。キャンペーンをするなら、旅行する側が守る感染対策と予防も並行してメディアとタグを組んで発信しなかったことが大きい。知人は利用したが、3密回避を守り消毒もしていたが、大人数の年配客がマスクもせずに大声で話していたと言っていた。

キャンペーンをしなくても、旅行に行きたい人はいく。むしろ余裕がなくても納めている税金から、旅行に行ける人の補助をするのはなんかおかしいと思う。

11月上旬に感染者が増え始めた時に、人の移動の制限、3密徹底を喚起していればと悔やまれれる。

アフターコロナに向けて

コロナが終わっても、コロナ以前には戻らない。この間に経験したこと、新しい価値観で民間は変化していくだろうと思う。戻ることは無い。
どんなにお金があっても(日本は借金大国)担い手の人手がなければ、どんなサービスも提供できない。今回の看護師・医師不足もそうだろ。
人を育てるのは1年や2年ではできない。10年20年先を考え、人を育てることを考えてほしい。そして国籍や外見で対峙するのではなく、多様な価値観、文化、常識を受容できる人間、国であってほしいと思う。
「You are OK. I am OK.」でありたい。

追記:旅行は行かなかったけど、ある業界にはお金を大分落としたと思う。大分使いすぎた感じがするが、最後の入れ替えだから。

帯に長し襷に短し

これだけスマフォのカメラが進化すると、コンデジは立ち位置が難しい。実際、カフェや日差しの少ない環境では、ミラーレスにしろ一眼にしろISO感度高め撮影になってしまう。

今年、コロナ禍にミラーレスカメラが何台か新発売されている。
供給が追いついてないキヤノンのEOSR5とEOSR6。R5は高画素で8K動画も撮れる。R6は高感度も撮れる優れもの。本体も小ぶりになり慣れればボタンもダイヤルも使いやすいだろう感じ。で、R6を借りて35mmマクロと85mmマクロを借りて西葛西にある刈谷動物病院内にあるキャットプラザに行ってきました。

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この2本のレンズは一見ごっつい感じがするが、まだ軽いレンズ。
35mmの方は一度Rカメラで使ったことがあり、AFが迷うことはいっさいなかったが、85mmは、1度どこかにAFを決めないと、迷って迷って猫さんの撮影は難しい。おそらくファームアップで改善されるかもしれないが、動物や子供さんの撮影には向かない。と思った。一方でカメラは、センサーへゴミ対策や手振れ補正など、魅力は満点。カメラの力量はあるが、問題は高〜くて、重たいLレンズでないと安定して使えない感じがした。仕上がりは結構好きな感じでした。特に最後の写真の雰囲気は。

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ソニーもα7Cやα7S IIを発売。ソニーの手ブレ補正はオリンパスやキヤノンほどではない。さらにセンサーのゴミ問題は他より多い。一回ゴミがついた時に、セロテープのはじでちょいととったことがあるが、レンズ交換時気をつけないとというのも神経を使う。しかし、レンズの選択肢が多い。カールツアイスや純正で小ぶりなものもあり、被写体によって使い分けができる。

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最近のフルサイズはとても高い。何を被写体とするか、レンズはどうか?を考慮して本体選びをした方がいいだろう。

レンズが重たくて高価、本体も高価を選択するか、室内でのノイズは灯を足して補い、レンズ描写でレンズを選択してノイズ軽減するか。実に「帯に長し襷に短し」なのである。

大切なのは、あなたが何を撮りたいのか、それにあった機材を選択する、選択肢の多いメーカーが望まれる。
私は、RシリーズのLレンズを購入する余裕はない。気に入ったレンズ1本ならRPで良い。で、諦めた。しばらくは一眼レフで頑張る。今は移行期、しばらくすればまた、レンズも揃い、選択肢も増えてくるだろう。

プロフィール的ふりかえり5ー仕事に通じること

<行動で示さなければ信頼は得られない>

仕事の時代の話の前に、短大は、都内に本校があり3クラスだけ流山にあるという学校でした。流山は環境もよく、大きな運動場もあり、本校のクラスも週一回体育の授業で来ていました。
サークル活動を掛け持ちしていました。流山で軽音楽(実質フォークソング)、本校でハワイアンクラブ(実質ロック系バンド)と漫画研究会、そして学園祭実行委員。それと中央大学とのサークルも参加していた。なので勉強する時間があまりなかったのですがどうにか単位を落とさずに済みました。

学園祭実行委員は、本校開催。委員メンバーは本校のクラスで、普段交流はない。2年目の委員を選ぶとき、私のことをよく知らないから主責任者にはしてもらえなかった。そうだよな、自分だって週一しか来ないのでわからない人に頼めないよなってね。

でどうしたか?実行して信頼してもらうしかないよねってね。学園祭招待ミュージシャンのポスターは学内で作る。好きだったレタリングを使って描いた。パンフレットの編集、広告とり、広告作成、割付、など印刷会社に通ってやり取りした。講堂でのダンス会(名称失念)のミキシング、セッティング、チケットは漫画研究会の仲間に描いてもらったりと、学園祭の前の1ヶ月弱は本校に通って作業していたのだ。学生だからできたことだけど、やりますと言ったことは、必ず実行する。それを心がけてました。出席日数ギリギリ。実行委員会のメンバーの信頼も得られ、今も年賀状はやり取りする関係です。

この学園祭の経験は、人と人の信頼は行動で示して初めて得られるものだと言うことを痛感している。

<コミュニケーションは人と人の関係づくりが大切>

広告会社に就職した頃は、まだ機械均等法前で短大卒業の女子は事務職のみでした。バブル期でもあり人手が足りず、最初から現場配属に珍しく配属された。入社当初はアルバイトに間違えられた。男子と同じ仕事をしているのにどうしたら社員と認めてもらえるかを考えたときに、学生時代の行動で信頼してもらうしかないと思った。約束したことは必ず守る。社内外の仕事相手の声と名前と所属を覚え名前を聞く前にこちらから名前を言う。仕事に関連することは週末勉強する。これをまず1年間は続けた。新聞雑誌の草稿を担当していたので印刷のことは、書類を作って説明できるぐらいに勉強した。

時頭の良い人はそうした実施体験をしなくても、周囲を動かしていけるのだと思う。私の場合は実際に体験しないとどのぐらいの期間で何がどの程度できるのかの勘所や相手を説得できる自信がない。自分が理解することで課題や改善点が明確になり前進していくと思う。

仕事って社内外のチームで目的に向かってより良いものを作り上げていくものだと思った。だから、違うと考えることを率直に返してもらえる環境を作ることも大切。チーム内で議論し合える環境。それが自分のスキルもアップするし、相手との関係が深くなる。もし、相手が提案してきたものが全く異なるものであるとしたら、自分のプレゼンテーションが間違っていると考える。伝え方を変えて相手の理解を感じ取らないといけない。そして最悪の場合、自分で全てのことを実施するぐらいの覚悟を持つこと。そうすると途中で、問題点を発見できる。そうしてら学んだことは、私の実になっている。私は受発注の関係であったとしても、彼らは専門家であり、対等であると思っている。コロナ禍で余裕がないと思うけれども、原点を忘れて欲しくないし忘れたくない。

プロフィール的ふりかえり4

<アメリカの両親との思い出>

学生時代の1ヶ月のホームステイ、その後の8回訪問(1週間ぐらいの滞在)は、両親の率直な考えを聞いたり、初回の訪問で感じた思いに戻ることができました。自分の生活する環境では、認めて欲しいと背伸びをして疲れていたのだろう。リフレッシュと言うか、別の環境で原点の自分にリセットできたのだ。

会えない年も、たまにかける電話で、最初は5分で済む話を30分かかるが、徐々に必要な用件はやりとりできるようになった。言葉は大した内容でないけれども、声のトーンや話し方で元気がないとか楽しいことがあったとかわかる。
会いにいく年は、春ごろ電話して6月と9月と都合を聞いて、自分の仕事の都合と合わせてフライトを予約する。手紙か後半はE-mailで予約内容を連絡するのだが、筆不精の両親は、確認したよって返信がないので、電話することになる。

<不思議なこと>

ある時、クリスマスの近況報告でお父さんが癌を患っていると書いてあり、来年行かないと一生会えないかもしれないと感じた。9月のフライトの予約が取れメールと手紙も送った。なんとなく確認の連絡をしようと電話した。普段両親が電話に出るのに一緒に住んでいない子供達が電話に出た。代わる代わる電話口に出る。最後にお母さんが、お父さんが自宅でターミナルケアを受けていて危篤だと話してくれた。私の電話の3時間後に天国に旅立ったのだ。その年は、ただお母さんの側にいて話をしたり、日常の買い物や行事に同行する旅になった。後にお母さんはお父さんは私の電話を待っていたんだろうと言っていました。

初めて行った時は、お互い相手がこう考え、こう感じているのだろうと思っていても、確認するすべが無かった。徐々に回数を重ね確認できるようになると、お互いが感じていた事が正しいことがわかった。不思議、国も言葉も違う、距離も離れていても、心通じるところがあるのを実感しました。それは、根底に双方通じる何かがあってのことなのかもしれない。子供達や孫も全員がそうなわけでなく、孫娘がその感覚を引き継いでいた。彼女はお祖母さんと私の関係を感じて、FBでお母さん(私にとって)の死を知らせてくれた。

<ネブラスカで感じたこと>

・人と人は言葉が通じなくてもコミュニケーションできる
・自分が自分らしくなることとは
・親と子の自立した関係
・家族で誕生日や祭事には集まり、助け合う

両親が、等身大の自分をそのまま理解して受け止めてくれていたからだと思う。そして、実の父もそうした考えを持っていたのかもしれない。今となっては確認のしようはないが、こういう話をするとこう答えるぐらいはお互いわかっていたかもしれない。

この年になってみると、いろいろな意味で人に恵まれたと思う。自分自身ゆとりを持って相手のわかる言葉、表現で接していきたいと思う。