日本人はモンスーン型らしい。
他に狩猟型とか色々あるみたいです。
台風が来る前に色々準備をして備えるが、備えを超えた台風が到来し被害を受けると、しかたないとまた回復させていく。この話には、相反する両行を受容することができる稀なる国民だという話がありました。それは、日本語に表れおり、諺にも現れている。

何を言いたいのかというと、そういう多様性を持ち合わせていた日本がなぜにジェンダー後進国となってしまったのか。その理由はわからないが、個人的に感じたことを書いてみる。

社会が作る差別

ほとんどの人が経済的には自立しているとは思う。精神的にはどうだろう。私も他の人のことは言えないけれども、○○の誰それですと言って看板でお仕事をしていた感じはある。お父さんが、お兄さんが、どこそこの社長で、代議士でとか自慢される方もいる。お金持ちなだけだね。でも貴方はなあに。ってな話です。これは、社長だから役員だからいいということではない。自分が何を考え、何をしたいのか、何ができるのか、どう社会と関わるのか、を考えてほしいのだ。

大人の社会の偏見は、子供たちのイジメにもつながる。人が生を受け、生きていく中でだからこそ、社会的地位ではなく、その人個人を尊重してほしいと思う。

最近のメディアで気になったのが、「パート」「アルバイト」とわざわざテロップを書いている。発言はそうかもしれないけど、両方とも「パートタイム労働者」です。ググってみると習慣的に「パート」を主婦・主夫と呼び、学生やフリータを「アルバイト」と呼ぶとのこと。主婦・主夫も給料が発生していないだけで、大切な仕事である。そこに、働いている側の24時間好きなことができるみたいな感じを受け取るのは、私だけだろうか?パートとアルバイトを併記することは、メディアが暗に意味のない区別するというフィルターをかけているのだ。

同様のことは注意深く社会を見ていると、非難している側の人間にも、気づかずに差別を肯定しているところがあるのだ。

個を見よ!

○○人だから、こういう国民性だと、避難する人がSNSでよく見られる。それって、犬だから、猫だからこういう性格だよねって言っているのと同じこと。個々に性格も感じ方も違う。兄弟でも違うし同じ種類でも違うことは、大方の人が知っているのに、こと人間になると忘れてしまう。
宗教の関係でできること、できないことはあっても、国、性別、生まれた環境関係なしに、個と個で付き合うことはできないのかなって感じてます。
私が住む集合住宅には、年齢も国も性別も様々。だから、○○人がねとか言う言い方は好きではない、はっきり言って嫌い。エレベータで合えば、挨拶程度はする。海外で自分が外国人に見られる経験をしているから、自分はそれは事実だからなんとも思わないけど、それが聞き手によっては否定的に感じるのかよくわかる。それを公の会議の場で言うのはもうアウトだ。

差別発言は、発言者の自信のなさの現れ

人は、攻撃されたり脅威を感じると防衛行動を取る。私は偉い、強い、優秀だといった優位性を担保したくなるのだ。
男女関係なく、女はとか男はとか言う差別発言はそろそろやめられないのか。自分を正当化、優位に保つのがその会議の趣旨では無いのだから、私的感想の発言は個人的な場だけにして、中身を進める物事をより良くするために、討議をすればいい。周知徹底の場なら、書類を渡せば済む話。実に形式的で非効率。

森さんの発言問題は、そのこと自体の問題ではなく、日本社会の問題でもある。容認してきた人達、男女問わず容認してきた社会の問題だと思う。

なかなか、会社にいてはっきり上司に意見を発言できることは少ない。それは、仕事の内容ではマネージメントできても、メンタル面のマネージメント力を併せ持つ人材の育成ができていないのだ。誰しもが気持ちに余裕の無い社会になりつつある。誰も相手が嫌がるような苦言は自分もエネルギーがいるし、排除されることの恐怖。負のスパイラルだ。

自立した人間になろう、自分に自信を持てるようになろう

盛んに余人を持って代え難いと言うのは、それだけすごいというように聞こえるが、逆だと思う。人はいずれ死ぬ。属人化は物事をストップさせてしまうのだ。余人をもって代え難いのであれば、引き継いでいく人を育成し、属人化させないことが、責任あるものの役目だと思う。

人の言われるままに行動するのではなく、自分で情報を集め、考え行動する。それがたとえ自分の意に反する行動をすることになったとしても、前進につながると思う。

私も決して自分に自信を持っているかといえば、そうではない。だからいざと言うときに、防衛的になりドキドキしてしまう。だからこそ学ぶこと、経験を積む場を増やし、メンタル的には自立した自信を持った人間になりたいと思う。